姓名判断の虎の舞は、五格剖象方を基本とし、姓名の根幹である「天・人・地」三才を重視する姓名判断サイトです。

姓名判断コラム7 - 社会運・家庭運・内運などなど、五格以外の賠象方の穴を突く

姓名判断に多少凝っている方なら、社会運や家庭運、あるいは内運や援助運などというものを聞いたことがあるかもしれません。しかし、これらははっきり言って信じるに足るものではありません。ですのでもしこれらの判断によって、自分の運勢は悪いのだと認識されている方がいたら、「それは違う」とひとつ注意を喚起しようという思いでこのようなコラムを作成しました。というのも、おそらく姓名判断に迷われている方は、様々な流派の違いによって生じる個々の占い手法に対し、一体どれが正しいのかとその判断に迷われているんだと思うからです。

やはり、正しい占い手法を見極めるということは重要です。まさに現在のように様々な流派や主張が混沌としており、なおかつ誰もがどのような手法や主張が正しいのかを示せない姓名判断の世界においては、どのような姓名判断が最も正しく、かつ最も説得力があるかということを見極めることは重要なのです。しかし、見極めると言っても素人の方がそれらを見極めることは容易ではありませんから、私が自分の知っている範囲で、何が正しくて何が間違っているかということを主張したいと思います。そして皆さんは私の主張を読んで、さらにそれは本当に正しいのか、あるいはそうでないのかを判断する必要があります。

もちろん、完璧に正しい占い手法などありません。しかし、熊﨑氏が発明した「五格賠象方」がその誕生から百年近く経過しても今なお色褪せず、現在の姓名判断の基礎となっていることを考えると、この手法はある意味正しかったと言えるのではないでしょうか。なぜなら「正しさ」というのは時間が証明するからです。その反対に、「正しくない」ものは時間の経過と共に忘れ去られます。そのように考えると、私が今ここで「正しくない」姓名判断手法に関して色々と言うのはあまり意味のないことのようにも感じられますが、しかしこれが姓名判断に迷える人の一助となれば幸いだと思っています。

1. 五格賠象方とはなにか

姓名判断に対する理解を深めるためには、まず五格賠象方の基本を理解することが必要です。基本とは占い手法のことではなく、そこにどのような意味が含まれているのかということです。ここでは五格それぞれの意味を、熊﨑氏の文献を引きながら具体的に説明していきたいと思います。

五格賠象の原理

五格賠象方の基本的な原理は、波動的霊力と粒子的霊力によって成り立っていると熊﨑氏は説明します。これは少々難しく感じるかも知れませんが、至極簡単に説明すると、波動的霊力は空間の働きを司り、粒子的霊力とは時間の働きを司っています。これを二霊と言い、この根本的な法則は陽(波動的霊力)と陰(粒子的霊力)で表現されています。熊﨑氏曰わく、「宇宙万有に共通するところの、波動的性質と、粒子的性質の両面から、観察することが出来るのである。」とありますが、これは陰と陽で現される宇宙の基本的な特徴を物語っています。そしてこの法則が五格賠象方の原理であり、五格すべてにも当てはまります。以下、五格それぞれの意味を確認していきましょう。

天格
「波動的霊力を示し、姓名においては神性の宿るところ、すなわち祖霊(祖父母)を意味し成功運を司る」とあります。これは次に出てくる人格に対してどのような働き方をしているかということを計り、初めてその意義が明確になります。
人格
「粒子的霊力を示し、姓名においては当人の本質を意味し、妊娠の契機、精神の発祥するところ、生成化育の基本となる」とあります。すなわち人格はその人そのものであり、ここを外れて性格などを占うことは当然できません。
地格
「波動的霊力を示し、姓名においては自我の潜むところ、個性の発するところとなり、生理においては出生を司り、臍帯を意味す」とあります。つまり地格は、先天的にもって生まれた個性を表現する部位と言うこともできます。
外格
「粒子的霊力を示し、八百万の神の霊意を含み、姓名においては主として、当人の環境、外側(がいそく)となり、生理においては成長を司る」とあります。人格を主とした時、外格はそれを外側から包み込む役割を果たします。したがって外格は家屋であれば壁、人体であれば肉や皮膚を意味します。そしてこれは「物みな表あれば裏あり」という真理に繋がります。
総格
「統一主宰の霊威あり、粒子的霊力を示し、四魂(四格)の活動を司り、姓名においては全体的生活を表現し、生理においては全体軀を意味し、神霊的には、天神、地祇集まり給うところとする」とあります。総格はいわゆる晩年運・後年運としてのみ考えられがちですが、四格を集めた総合的な運勢ですから、それぞれの物事の結果としても現れてきます。

なぜ五格なのか?ということに関しては、易の三天両地の法則の数の原理において、五までが純粋の基数だということに由来しています。熊﨑氏曰わく「一から十までの基本数の中でも、一二三四五までが純粋の基数で、その中に、一三五の奇数すなわち天と、二四の偶数すなわち地とがある。これが天地万有の基本中の基本で、三天両地と称せられ、易理発生の根本原理である。ゆえに五の数は中央数といわれ、全ての中心的存在であり、五以上の数は純粋のものでなく、五に一を加えて六、五に二を加えて七という風に、混合体となるのであるから、五格剖象は最貴最善、至純至聖の意を含むことになるのである。」

これはまた、万物は五つの要素から成っているという中国の五行思想に通じるものです。五格を簡単に表現すると、中央には「人」がい、見あげれば「天」があり、その下には「地」があります。また物みな表あれば裏ありで外側を取り巻くのが「外」であり、それらを総合したものが「総」で表現されます。これらは全て自然の摂理から得た意味のあるものであり、簡単に揺るがせられるものではないのです。

これらを踏まえた上で、以下五格以外の剖象法について見ていきましょう。

家庭運の是非について

家庭運というものは私の知っている限りでは、姓の上の一文字のみを除き、他の全ての文字画数を足したものです。どうしてこれで家庭運が分かるのでしょうか?これのどこが「家庭」を現しているのでしょうか?この家庭運というものは、一見人格と地格に関係しているように見えますが、実は五格どこの格にも関係していません。たとえば「33 45」という二字姓二字名であれば3+4+5となり人格部と地格部のみを巻き込んでいますが、「343 45」という名前であれば4+3+4+5となり、今度は天格をも巻き込んでいます。これはつまり五格を基本としていながら、五格の原理を無視しているということであり、このようなやり方で正しい姓名判断ができるわけがないと私は思います。

「家庭運」というものが実際あるのだとするならば、それは人格を差し置いて判断することは出来ないはずです。なぜなら、家庭で和やかに過ごすのも、家庭を不穏なものにするのも、その者の性格・性質が決め手になるはずだからです。もし私が家庭運を見てくれと言われれば、それは人格と外格を主とし、それに加えて三才の配置を見ることになると思います。なぜなら外格は環境運ですから、自分の周りを取り巻く家庭の状態を端的に知ることが出来るからです。また三才においてはその者の力量や人間関係、健康運などを見るでしょう。なぜ力量や健康運が重要かといえば、おそらく力量が弱く健康運の悪い者は、家庭においても不遇な状態にあると思われるからです。

また家庭運というものは、それ自体が曖昧なものですので、以上のように全体のバランスを見ながら判断することが必要であり、一つの格で判断するということ自体がおかしいとも言えます。いずれにしても、姓名判断において五格を基本とするのであれば、五格を主体として取らなければいけません。少し辛辣な言い方かもしれませんが、このようなものは一種の「数遊び」であって、当たるも八卦当たらぬも八卦の類だと思います。

社会運の是非について

社会運というのはこれの逆で、名の一番下の文字を除き、他の全ての文字画数を足したものだと思います。上と全く同じ、どうしてこれで社会運が分かるのだろうか?という疑問が湧いてきます。推測ですが、おそらくこれを考えた人は、「こんなような格も取れるぞ」とばかりにいたずらに格を取り、そこにもっともらしく「社会運」と冠したのではないでしょうか。もしそうではないにせよ、これではあまりにお粗末です。なぜなら上記の家庭運と同じく、このやり方は五格を全く無視しているからです。五格を無視しているということは、そこに内包されるべき意味や理念が全くないことを示しているのではないでしょうか。

実際に「社会運」というものがあるとするならば、それは三才の配置を主とし、続いて外格、総格から判断すべきです。まず天運をあらわす天格と人格の関係から成功運を知り、人生の土台である地格と人格の関係から基礎運を知ることによって、その者の社会においての順境か不遇かの尺度、すなわち運勢を知ることが出来るからです。また外格は環境運ですから、これを見ることによって職場での人間関係や待遇などを知ることができ、加えて総運を見ることによって仕事の総合的な結果が分かるわけです。ですので家庭運同様、一つの格でもって社会運という曖昧な運を判断するということ自体が、その真偽を怪しむべきことなのです。

内運の是非について

内運というのも同様です。基本の五格を無視したやり方で何かの運を判断しようとすること自体、姓名判断の原理原則から外れており、真偽を疑わざるを得ません。また内運というのはその者の心の内を知ろうということらしいですが、どうしてこれで心の内を知ることができるのでしょうか。というのも、人格はその者の本質(心)を現しているので、人格を離れて内面を知ることなど考えられないからです。また、内運ではその者の本心が分かると謳っている者もありますが、その本心を表現しているのが紛れもない人格なのです。

ところで、その者の性質・性格の本質をより深く知りたい場合には、人格の構成要素を見るのです。たとえば「山田 太郎」という人であれば、人格は9数の水ですが、それを構成しているのは5数の土と4数の火です。これを加味します。その性格は「極めて活動的で知識欲が旺盛、物事に激しやすく、冷めやすい」などという判断に加え、「繊細なところがあって物事によく気が付く、また表面に似合わず以外に度量がある」といった判断ができます。このように、心の内というものは人格を離れては決して判断できないものだということを覚えておいてください。

その他五格剖象以外の格について

その他の五格剖象以外のものについても同様、ほとんどが信じるに値しないものだと思います。特に八格剖象や九格剖象というものになると、それら全てを吉数にすることはまず不可能という問題に突きあたりますが、これはそのような理論が既に破綻していると言っても過言ではありません。それでもそのような人は、「数自体に吉凶はない!」などと反論されるでしょうか。とにかく基本の五格以外の格や運を取る姓名判断に関しては、まずその手法をしっかりと知り、それにどのような意味が含まれているかを調べた上で、それが本当に当たるか当たらないかを自身で判断する必要があると思います。

終わりに

ここまで「五格以外の賠象方の穴を突く」と題して少々厳しい口調で語ってきました。しかし、私は五格剖象法が完全な方法であり、これ以上でもこれ以下でもダメだと言っているわけではありません。むしろ姓名判断はその的中率をあげるため、もっと進化させるべきだと常に考えています。

ただし、その進化が基本の五格を無視したものではダメだと思うのです。五格を基本とし、それを生かすような新しい手法を生みだしていく。もちろんその場合には、現在やっているような鑑定方法の枠を超え、全く新しい考え方が必要になってくるでしょう。しかしそのためには、いずれにしても基本を知ることが第一です。基本を無視した「数遊び」的なやり方では、たとえ革新的ではあっても、本当に意味のある正しい手法は生みだせないと思うわけです。